何故神話は生まれるのか 〜 ガルシア=マルケスのシナリオ教室

ガルシア・マルケスは1982年にノーベル文学賞を受賞した映画脚本も手がける作家・小説家。彼(=通称ガボ)の紹介はこの辺りのテキストが的を得てる。
- 「(私が)ノーベル文学賞を告げられたとき、へえー、うまく引っかかったんだな、あのお話を信じたんだ」と、真っ先に考えたんだ。自分の仕事に不安を感じるのは恐ろしいことだけれど、一方で何か価値のあることをしようとすれば、どこかにそういう気持ちがなくてはならないんだ。全てをしり、疑うことを知らない人間は、結局どこかでつまづき、それが元で死んで行くんだよ。
- 彼には映像、言語という媒体とは無関係にとにかく語りたいという止みがたい欲求があり、その為の手段としての映画、TVドラマであり、文学作品なのであるのだ。
ある意味妄想家〜ほら吹きのハイエンドかも知れない。映像や映画、TV作品の制作、小説や脚本の技術面にも触れながらもあくまで”物語が出来るまでのプロセス”に焦点があてられている。以下にちょっと抜粋。
- 私にとって、ストーリーというのはおもちゃみたいなもので、それをいろいろに組み合わせ、組み立てていくのが遊びなんだ。それぞれに違った個性を持ったおもちゃをたくさん用意して、子供をその前に立たせる。その子はおもちゃで遊び始めるけど、最終的にはそのうちの一つを選び撮る筈だ。そうして選ばれたおもちゃが、その子の適性と天職を現しているんだ。ある人の才能が生涯に渡って伸び続けて行く為には色々な条件が必要だが、そうした条件が与えられれば、どうすれば人は幸せに長生きできるかという秘密の一つが明らかになると思うんだけどね。
- とにかく、捨てる事を学ばなくてはならない。
- 選択肢はいくらでもある。
- 色々な要素を入れて行くうちに”柔らかく”なりすぎ”てしまう事がある。
- だからある程度アイディアが固まったなら、余大きく変えない方が懸命だ。
- 絵を書いている時に似ている。
- 冒頭でどういう作品かほのめかす事も必要だ。
- 展開のない物語は物語というより状況[シチュエーション](と言うべきだ)
- 映画はドアで始まるんだ。
- 「君がいってるのはストーリーではなくアイディアだ。そこからをストーリーを引き出せるかやってみよう。」
- 完結明瞭に語れるいいストーリーがあれば、なるべく入り組んだものにしない方がいい。
で、あとがき。物語は虚構である。では何故虚構である必要があるのか?受け手と作品との距離にも一念。
■神話化
ここに、ルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデが伝える面白い話がある。ルーマニアのある民俗学者が地方の村で、ある謳歌(バラード)を採取する。山の妖精に魔法をかけられた一人の若者が、結婚式の数日前に嫉妬にかられた妖精の手で岩山の天辺から突き落とされる。翌日、牧人達が木陰に彼の帽子と死体を見つける。かられ画若者の市街を村まで運ぶと、婚約者だった娘がやってきて、若者の死体を見、神秘的な隠喩に満ちた葬儀の哀歌を謳うという内容で、村の人達はこれは大昔に起こった事だと説明する。ところが、調査を進めて行くうちに、その事件はたかだか40年ほど前に起こった出来事で、婚約者だった女性はまだ生きているという事が分かる。その女性に話を聞くと、彼女の婚約者はある晩うっかりして足を滑らし谷底に転落し、大けがをした後なくなり、葬儀が営まれ、彼女もほかの女性と一緒に儀礼的な葬送の歌を歌ったが、山の妖精には一言もふれなかったという。このエピソードを紹介した後、エリアーデは次の様に述べている。”このように、歴史上実際におこったでき事が消し去られ、それが伝説上の物語(嫉妬深い妖精、婚約者の殺害、死体の発見、嘆「許嫁の神話」のテーマに富んだ物語)に変貌をとべるには、たとえ主要な証人が生き残っている場合でさえ、ほんの数年で十分なのである。”
(中略)
エリアーデの引用によれば、ルーマニアの寒村に住む人達はさほど珍しいとはいえない転落事故による不幸な死を人々の記憶に止める為に山の妖精という虚構を盛り込んだ。そして、この嘘を通して事件を神話的な讃歌、あるいは物語にまで高めたと言ってよいだろう。
忘れたくない、という気持ちが物語を作る。逆に、神話の域まで気持ちと同調出来た物語は忘れられる事がない。
参考
amazon:物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室

“何故神話は生まれるのか 〜 ガルシア=マルケスのシナリオ教室”